寒天(カンテン)は日本で発明された
海草を煮てところ天(心太)を作る技術は、平安時代、遣唐使によって中国から伝えられたといわれています。
そのところ天から寒天が生まれたのは、1650年前後(江戸時代)。美濃屋太郎左衛門によってはじめて作られたという記録が残っています。
4代目将軍徳川家綱の頃、京都・伏見にあった美濃屋太郎左衛門の旅籠に、島津薩摩藩主が参勤交代で泊まったときのこと。料理で残ったところ天を外に捨てておいたところ、凍結して自然乾燥し、干物となってしまいました。数日後太郎左衛門がこの干物を煮て、しばらく置いておいたところ、ところ天の臭みがない、白くて美しい無臭の食べ物になることを発見。その後研究を重ね、寒天の製造方法を発明したといわれています。

当時はこれを「ところ天の乾物」と呼んでいたようですが、インゲン豆で有名な僧隠元《http://ja.wikipedia.org/wiki/隠元隆g》が精進料理として賞賛し、「寒天」と名付けたといわれています。
その後約130年間、寒天は伏見の名産となり諸国に販売されていましたが、摂津(大阪府)の国の宮田半兵衛が美濃屋で手法を習い、改良製造法を完成しました(1830年頃)。
そして徐々に大阪府、京都府、兵庫県の山間部に広まっていきました。
信州の諏訪郡玉川村の小林灸左衛門が丹波の国で製造方法を習得し、信州で製造をはじめたのは天保年間(1830〜43年)のこと。
気候風土が寒天製造に適していたことに加え、冬の農閑期に行う農家の副業として適切であったため、近隣の村々にも広がっていきました。
しかし、当時は原料の海草の輸送が困難であったため、あまり発展しませんでしたが、中央線開通によって一気に広がり、国内需要も増えたことから世界最大の産地となっていきました。

海外へ多く輸出していた寒天は、戦争によって輸出を禁じられ、海外では工業による寒天製造が行われるようになりました。国内でも戦後、工業による製造が増え、天然寒天は徐々に姿を消していきました。
現在では、当組合で把握している限り、角寒天が信州、糸寒天が岐阜で作られているのみです。
2005年2月にNHKテレビ「ためしてガッテン」 http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2005q1/20050216.html
で取り上げられ、大ブームを起こしました。
この日を記念して、2月16日が「寒天の日」と制定されました。
